(500日)のサマー感想

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例によって、作品に対する個人的な考察を述べてみたいと思う。この作品は時間が行き来するなど、表現技法にも特徴がある。できればそういった点も踏まえて考察したいところなのだが、あいにく僕は表現技法には詳しくない。なので、ストーリーや登場人物に関する率直な感想を述べるにとどめたい。

## 感想

この作品の印象を一言でいうなら、「現実にありふれた物語」である。作品の冒頭にあるように、登場人物が自分や知り合いの誰かに似ていると感じてしまうほど、既視感のあるキャラクターが作られている。

ただし、念頭に置くべき大前提がある。それは、この作品が「トムの物語」であるということである。
物語のシーンは全てトムが見聞きする場面であるし、映像にはトムの心情がよく表現されている。タイトルにある「(500)日」は「トムの体験のうちの 500 日」という意味なのである。

何故くどくどとトムの物語であることに言及しているのかというと、いつの間にか「サマーは悪い女かどうか?」ということを考えそうになるからである。むしろ、そのような問題意識を刷り込もうとしている演出がいくつかある。

例えば、冒頭に原作者のメモとしてナレーションが「クソ女め」と言うシーンが印象に残る。これはサマーのことを言っているわけではない。だが、なんとなく「クソ女っぽい女性が出てくるのだろう」と思わせられ、非常にわざとらしい。他にも、「サマー効果」の話やトムの同僚がサマーの悪口を言うなど、事実と主観を絶妙に混ぜることで、サマーの人間性に興味が惹かれるような動線がひかれているのである。

そのため、「サマーに振り回されるトム」や「トムから見えるサマーとその裏側」のような視点で見てしまいがちになる。しかしよく考えると、トムとサマーがお互いの価値観に与えた影響は少ない。最後まで、トムは恋愛相手との物語を、サマーは親友との物語をそれぞれ紡いでいるのである。

したがって、トムとサマーの成長はそれぞれ切り分けて考えることが妥当だと思われる。

## トムの成長

というわけでトムのほうに目を向けてみると、恋に落ちてから失恋して立ち直るまでと、なんと清々しい成長の軌跡であろうか。

彼は元々正直者でやさしく、周りからも人望があるように描かれている。ただ少しだけ夢を追う自信がないという、ありふれた若者像である。そんな彼は、サマーとの関係が充実しているときには仕事でも実力を発揮しており、大変健全なマインドを持っている。さらに、失恋のストレスを夢へ向かって努力するパワーに変えることにも成功し、将来を期待させるほど人生を前へと切り開いている。

トムにとってのサマーは、一人の恋人候補でしかない。興味深いことに、サマーの特性がトムに与えた影響はほぼないのである。例えば、トムがサマーの付き合い方を理解する描写はない。また、ラストシーンで彼は「人々の出会いは運命ではなく偶然であり、それに対する自分の行動こそが重要である」と悟っているが、これは彼が恋愛における自身の在り方を内省して得た結論であり、サマーと共有した時間の中で得たものではない。

とはいえ、トムの恋人候補の一人にサマーがいたことは、彼にとって災難と言わざるをえない。もしサマーがトムの好意に対して明確に拒否を示していたら、彼はもっと早く先に進めたと思う。無論、恋人となってそのまま結婚していれば、トムにとって最良であったのは間違いない。

出会いと別れの繰り返しを肯定したいがために、「人としての成長」に着目する話は枚挙にいとまがない。だが、その成長はあくまで副産物であって目的ではない。というか、トムの場合はそうするしかない状況で苦しみながら這い上がったのであり、その成長は 100%彼の努力で得たものである。たとえ褒められることはあっても、間違っても「なんだかんだ良い経験になったじゃん」などと言われる筋合いはない。

もっとも、トムがサマーと出会ってから別れるまでは 500 日より少ないくらいである。現実にはこれが何年もかけて起きる場合もあることを考えると、1 年半程度で済んでいるのは不幸中の幸いだろう。それに、次の恋人を見つけたり再就職したりできるくらいには若い年齢であるということも、悲惨な結末にならない理由の一つだと思う。おそらく数年後には、サマーのような女性はトムの恋人候補からいなくなるだろう。

## サマーの成長

では、サマーの方はどうかというと、こちらも人が変わったように成長(?)している。彼女は途中まで、カップルのように接しながら友達関係を主張するという、非常識といえる行動をとっている。この時点で、彼女が良いか悪いかで言ったら悪いに決まっているが、その考え方(もちろん本人の主観によって善悪が覆ることはないものの)にはハッとさせられる部分もある。

彼女は自分が捨てられることに恐怖する一方で、大切なものを捨てることに頓着しないと考えていた。故に、お互いが所有関係のように見える恋愛を拒絶していたのである。つまり、別に相手をとっかえひっかえしたいという願望があったわけではない。サマー効果など、それこそ偶然彼女が持ち合わせている特性にすぎない。

作中では、彼女は映画を見てこの考えを改め、男性と恋愛関係を築くようになる。一体その映画の何が彼女に影響を与えたのかは(映画の引用によるメタ的な考察は避けるとして)分かりかねる。だが、その映画は彼女が見たいと主張して見たものであり、サマーもまた他でもない彼女自身の行動が彼女を変えたのだということが示唆されている。

その結果、サマーはトムよりも過去に出会った男性と結婚する。結婚相手がその男性であることについて、彼女は運命であると言っているが、やっていることは立派な取捨選択である。判断基準が直感(とサマーは言っている)である点は置いておくとしても、最終的に彼女はきちんとトムを振っており、その様子から彼女も成長していることが伺える。

ところで、僕は彼女が行った結婚相手(=運命の相手)の選び方を、皮肉にも凄く上手であると感じてしまった。

恋愛は基本的に、出会って付き合って別れたら次である。複数の相手と同時に付き合うことは、誠実さに欠けるため良くないとされる。故に、付き合う順番やタイミングによって最終的に選択することが不可能になってしまう相手も存在する。例えば、「3 人付き合ったがやはり 1 人目がよい」と思った場合、その 1 人目がすでに他の人と結婚していたらこの選択はできない。

ところが、サマーの方法であればこの問題を解決できる。サマーは多くの男性たちとの関係を保留にし、後からその中で自分がピンときた一人を選択したのである。周りから見ればカップルにしか見えない関係であるため、男性たちに他の女性は寄り付かないだろう。この方法であれば、彼女は運命の相手をいつでも選ぶことができる。もちろん相手が自分に好意を持っていることが前提だが、サマー効果がある彼女なら誰でも選択できる。実際、サマーは他の男性と付き合っていながらトムと踊っている様子が描写されており、彼に期待を持たせ続けている。

もちろん、サマーは意図してこの方法を行ったわけではない。そもそも彼女には運命の相手を選ぶつもりがなかったからだ。それを後から覆したのだから、全ての男性から愛想をつかされてもおかしくはないが。要するに、「モテるから自由にできた」という話である。

## まとめ

日常生活で偶然と思える出会いには、必ず「誰かの行動」という原因がある。トムとサマーが出会ったのはサマーが入社してきたからだし、トムとオータムが出会ったのはトムが転職活動を行ったからである。したがって、偶然性のあることと言えば「誰と誰が出会うのか」ということである。しかし、この作品は「誰と出会っても起こりうるパターン」を描くことで、本人たちの成長が必然に満ちたものであることを感じさせるようになっている。

個人的には、できることならトムのような経験はしたくないし、サマーのような女性には近づきたくない。だが、「フィクション」として見るならば非常に勇気づけられ、笑える物語であった。

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